
大好きな花散歩から世界最古、アプリコット色のナミブ砂漠まで。好奇心を原動力にあちこち出かけます
by tanpopo-jyo
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ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢
2025年10月24日(金)
今日は東京都美術館で開催中の 「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」へ行って来ました。
写真はミュージアムショップで衝動買いした ゴッホの編みぐるみ。9,380円也

本展は、約10年間のゴッホの画業をたどると同時に、
およそ1,400点というゴッホ兄弟のコレクション (同時代の画家たちの絵画や版画)と、
2,000点ともいわれる膨大なゴッホ作品を受け継いできた 「家族の物語」となっています。
写真は左から、19歳のゴッホ、4歳下の弟・テオ、テオの妻・ヨー、
そしてテオとヨーの一人息子フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホです。

1853年、オランダ南部の村 ズンデルトの牧師館でゴッホは誕生しました。
この年、日本で起きた大事件が 黒船来航。
つまりゴッホは幕臣・土方歳三や幕末の志士・坂本龍馬より17-18歳若い、そんな世代です。
ゴッホは13歳で上級ブルジョワ学校の中学に入学,良い成績で2年に進級しますが、
半年で退学。その後、27歳で画家を目指すまでの10数年間に
伯父の紹介で美術商グーピル商会に勤めたり、補助教員をしたり、本屋に勤めたり、
父と同じ牧師になろうと神学部をめざして受験勉強をしたり、伝道師になろうとしたり...と
解雇や挫折を繰り返し、27歳頃からの生活は、
父親や、ゴッホと同じグーピル商会に勤めた弟テオからの送金に頼るのみとなりました。
解雇や挫折を繰り返したといっても 怠惰だったわけではなく、
人の役にたちたい!! という思いがあまりにも強すぎて ("炎の人" ですから^^)、
たとえば支給された伝道師の服を貧しい人に与え、自分は裸同然で歩いていたとか、
5歳の娘を連れ、父親不明の子どもを妊娠している娼婦を家に引き取って
出産するまで面倒をみたりもしています。
当時、弟テオに送った手紙には 娼婦になったのは自業自得かもしれないけれど、
不幸は当人の責任以上に大きくなることもあるというようなことを書いています。
テオにしてみれば、自分が送金したお金で娼婦の世話かよ!ですけどね。
鉛筆や木炭、本を買って独学で描き始めたゴッホは、
グーピル商会に勤めていた時に見て衝撃を受けたミレーの模写に取り組み、
農民を描く画家になることを目指します。
ただ、3年4年とテオの送金を頼りに生活していたゴッホは次第にそれが心の負担になり、
「作品は全部 君に送るから、その対価として金を受け取りたい」とテオに提案するんです。
「全然売れない絵の対価」っていうのも都合の良い話ですが、テオは提案を受け入れ、
結果として膨大な作品が散逸せずにテオの元に遺され、
のちにファン・ゴッホ美術館の礎になるわけです。
女性の顔 1885年4月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

「女性の顔」を描いた翌年、パリに出た33歳のゴッホは印象派の作品と出会い、
明るい色彩の絵を描くようになりました。
パリでの2年間は、美術商グーピル商会パリ本店に勤めていた弟テオと共同生活をしており、
テオは美術商としてモネやルノワールを育て、
ピサロやスーラ、ゴーガン等とも親交があったので、兄に彼らを紹介し、
もっと明るい絵を描くようにアドバイスをしたようです。
グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶 1886年8-9月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

オランダ時代から心酔していた日本の浮世絵の収集を本格的に始めたのもこの頃。
歌麿や北斎はすでに値が上がりすぎて手が出なかったので、
歌川広重や渓斎 英泉、歌川国貞などの作品を集めたようです。
その数、500点余り。
三代歌川豊国(歌川国貞) 東海道名所風景 日本橋 1863年 ファン・ゴッホ美術館

ゴッホは印象派の描法と、浮世絵の表現法の影響を受けながら、
それらを自らの芸術に融合させて独自の世界をつくりあげていきます。
モンマルトル:風車と菜園 1887年3-4月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

下は、同じ頃に描いた自画像です。
ゴッホは自画像を30数点描いていますが、筆やパレットを持って画家とわかる
唯一の自画像で、義妹ヨーは 自画像の中でこの作品が一番本人に似ていると言っています。
画家としての自画像 1887年12月-1888年2月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

1888年、南仏アルルに引っ越して まばゆい光と鮮やかな色彩の中に身をおいたゴッホは、
より鮮やかに、そして浮世絵の影響を受けたくっきりとした輪郭線を使って
印象的な構図の作品を描くようになります。
種まく人 1888年11月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

アルルでは春も夏も秋も、ゴッホの描きたいモチーフには事欠かなかったので
驚異的なスピードで作品を仕上げていき、
たとえば 「ひまわり」の 連作のように、のちに代表作と言われる作品を多く遺します。
アルルの「黄色い家」を芸術家仲間のアトリエにしたいというゴッホの願いは、
弟テオがゴーガンを説得して実現するものの、対照的な性格や制作スタイルの違いから
2カ月足らずで破綻、左耳を切り落とす事件が起き、これがきっかけとなって
1888年の年末から翌年春までの間に何度も精神障害の発作を起こして暴れ、
入退院を繰り返しました。
1889年4月、弟テオ (32歳) と テオの親友アンドリースの妹・ヨー (27歳) が結婚。
その翌月、ゴッホは自らの意志でアルルに近いサン=レミの療養院に入院して、
治療に専念しますが、医師の許可が出ると糸杉やオリーブをモチーフに制作を再開しました。
1890年1月、テオとヨーの息子、フィンセント・ウィレムが誕生すると
歓喜したゴッホは「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて贈ります。
本展にこの絵は出展されていませんが、幅14mを超えるイマーシブ・コーナーで
高精細画像を投影していました。

1890年5月、療養院を退院した37歳のゴッホは南仏を去り、
テオが用意したパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移ります。
「絵になる風景をもった田舎」が気に入ったゴッホは、
たった2ヶ月でスケッチや油彩画など百数十点の作品を仕上げました。
そして運命の7月27日。
下宿屋の皆が夜になっても帰らないゴッホを心配していると左脇腹を押さえたゴッホが
戻ってきて 「自分で撃った」と言い、それで「自殺」となるわけですが、
弾は左脇腹から入り右足の付け根で留まっていたらしいんです。
右利きのゴッホが撃てる角度か? とか 当時のピストルで撃つと手にススがつくはずなのに、
それがなかったとか、当時から色々不可解な点はあったようです。
ゴッホ伝記の決定版といわれる、ピューリッツァー賞受賞の「ファン・ゴッホの生涯」では、
日頃からゴッホをからかっていた近所の少年たちが、その日もゴッホをいじめていて
そうこうしているうちに銃が暴発してゴッホに命中した他殺説が書かれています。
もしそうなら「誰も責めないで下さい」と警官に言ったのも腑に落ちますよね。
真実は闇の中...7月29日、弟テオに看取られてゴッホは37年の生涯を閉じました。
麦の穂 1890年6月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

その年の秋、テオはパリの自宅を会場にして、3日間のささやかな追悼展を開きますが
会場で意識を失います。
何年も前から慢性腎臓病や梅毒と苦闘してきたテオは、
深い絆で結ばれていた兄の死により精神的にも肉体的にも崩壊。
完全に理性を失い、男性看護師7人がかりでも暴れるテオを押さえられず、
「麻痺性痴呆または脳梅毒と診断される疾患の兆候だった可能性がある」という
医師の所見が残されています。
1891年1月25日。テオはてんかんの発作を2度起こして息を引き取りました。享年33歳。
ゴッホの死からわずか半年足らずのことでした。
19世紀末のパリでは娼館文化が一般的だったこともあって 梅毒が猛威をふるい、
マネやゴーガンなども梅毒に苦しんでいたようですが、
不幸中の幸いはヨーと息子のフィンセントに感染していなかったことでしょうか。
テオ亡きあとのヨーは、幼いフィンセントとの生活のために下宿屋を始め、
ゴッホの作品に人々の関心を引き寄せる手段としてゴッホの手紙の整理を始めます。
ゴッホは確認されているだけで800通以上の手紙を遺しており、
そのうちの600通以上が弟テオ宛てで、残りは他の家族やゴーガンなど画家仲間宛て。
ゴッホは手紙にほぼ日付を書かなかったので、いつどんな作品を描いている時の手紙か?
の決定は大変な作業だったようです。
ゴッホ没後24年の時を経て、書簡集 「フィンセント・ファン・ゴッホ: 弟への手紙」を出版、
同年、テオの墓をゴッホの隣に移し、兄弟は今も並んでオーヴェールに眠っています。
友人の画家 アントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙 1882年9月23日頃

ヨーは手紙の整理と並行して、市場に多くの作品が出回らないように注意しながら
展覧会や展示即売会を開き、作品の写真を大衆向けに販売したり、
好意的な評論を書いてもらったりします。
元々、生活費をつけていた家計簿には 「いつ、誰に、何を、いくらで売ったか」
もつけていました。
最終的に、テオが亡くなった1891年から30年余りでおよそ250点の作品を売却。
この売却のことをヨーは 「栄光のための犠牲」と言っています。
ゴッホ没後 34年の1924年、「ひまわり」をロンドン・ナショナル・ギャラリーに売却し、
高名な美術館に作品を展示させることで、ゴッホの名声を確かなものにするという
ヨーの戦略は達成されました。翌年、ヨーは62歳で死去。

その後、ヨーの息子フィンセントは作品を散逸させないために販売をやめ、
財団を設立して大部分の作品が財団に移されます。
1973年、国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館開館。
財団所有の作品および兄弟のコレクションは美術館に永久貸与となりました。

余談ですが。
伯父 (画家・ゴッホ) と 甥 (テオとヨーの息子) が「フィンセント」、
画家ゴッホと弟テオの牧師だった父親は 「テオ」、
さらに!テオとヨーの息子のフィンセントの長男も「テオ」
家系図を見ると女性含め同じ名前があちこちにあるんです。なんで?
最後に。今年の夏以降に読んで面白かったゴッホ関連の本を2冊ご紹介します。
「画家 ゴッホの夢 謎解き名画巡礼」は、
ゴッホの代表作を取り上げ、作品解説とともに何故そのモチーフだったのか?
その時、ゴッホはどんな状況だったのか? を説明している本。
図版が多く、読みやすいです。

もうひとつは ヨーの伝記です。
著者はファン・ゴッホ美術館の上席研究員。
テオと結婚する前のヨーは、英語と英文学に関する3つの教員資格を取得し、
日刊紙の翻訳や女子寄宿学校で教師をしており文学の素養はありましたが、
芸術に関してはほぼ素人。
義兄の作品を正当に評価してもらうこと、義兄を支え続けた夫テオの遺志を継ぐことに
情熱をもって取り組んだヨーの伝記は読み始めると止まりません。
600ページ超、百科事典並みに厚い本なのでベッドの中で読むには不向きでしたけど。

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」は、12月21日(日)まで。
来春 (2026年5月29日~) には上野の森美術館で 「大ゴッホ展」も開催予定で、
大好きな 「夜のカフェテラス」も来日予定です!
ミュージアムショップで衝動買いした「ウチのゴッホ」の定位置はココ

今日は東京都美術館で開催中の 「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」へ行って来ました。
写真はミュージアムショップで衝動買いした ゴッホの編みぐるみ。9,380円也

本展は、約10年間のゴッホの画業をたどると同時に、
およそ1,400点というゴッホ兄弟のコレクション (同時代の画家たちの絵画や版画)と、
2,000点ともいわれる膨大なゴッホ作品を受け継いできた 「家族の物語」となっています。
写真は左から、19歳のゴッホ、4歳下の弟・テオ、テオの妻・ヨー、
そしてテオとヨーの一人息子フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホです。

1853年、オランダ南部の村 ズンデルトの牧師館でゴッホは誕生しました。
この年、日本で起きた大事件が 黒船来航。
つまりゴッホは幕臣・土方歳三や幕末の志士・坂本龍馬より17-18歳若い、そんな世代です。
ゴッホは13歳で上級ブルジョワ学校の中学に入学,良い成績で2年に進級しますが、
半年で退学。その後、27歳で画家を目指すまでの10数年間に
伯父の紹介で美術商グーピル商会に勤めたり、補助教員をしたり、本屋に勤めたり、
父と同じ牧師になろうと神学部をめざして受験勉強をしたり、伝道師になろうとしたり...と
解雇や挫折を繰り返し、27歳頃からの生活は、
父親や、ゴッホと同じグーピル商会に勤めた弟テオからの送金に頼るのみとなりました。
解雇や挫折を繰り返したといっても 怠惰だったわけではなく、
人の役にたちたい!! という思いがあまりにも強すぎて ("炎の人" ですから^^)、
たとえば支給された伝道師の服を貧しい人に与え、自分は裸同然で歩いていたとか、
5歳の娘を連れ、父親不明の子どもを妊娠している娼婦を家に引き取って
出産するまで面倒をみたりもしています。
当時、弟テオに送った手紙には 娼婦になったのは自業自得かもしれないけれど、
不幸は当人の責任以上に大きくなることもあるというようなことを書いています。
テオにしてみれば、自分が送金したお金で娼婦の世話かよ!ですけどね。
鉛筆や木炭、本を買って独学で描き始めたゴッホは、
グーピル商会に勤めていた時に見て衝撃を受けたミレーの模写に取り組み、
農民を描く画家になることを目指します。
ただ、3年4年とテオの送金を頼りに生活していたゴッホは次第にそれが心の負担になり、
「作品は全部 君に送るから、その対価として金を受け取りたい」とテオに提案するんです。
「全然売れない絵の対価」っていうのも都合の良い話ですが、テオは提案を受け入れ、
結果として膨大な作品が散逸せずにテオの元に遺され、
のちにファン・ゴッホ美術館の礎になるわけです。
女性の顔 1885年4月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

「女性の顔」を描いた翌年、パリに出た33歳のゴッホは印象派の作品と出会い、
明るい色彩の絵を描くようになりました。
パリでの2年間は、美術商グーピル商会パリ本店に勤めていた弟テオと共同生活をしており、
テオは美術商としてモネやルノワールを育て、
ピサロやスーラ、ゴーガン等とも親交があったので、兄に彼らを紹介し、
もっと明るい絵を描くようにアドバイスをしたようです。
グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶 1886年8-9月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

オランダ時代から心酔していた日本の浮世絵の収集を本格的に始めたのもこの頃。
歌麿や北斎はすでに値が上がりすぎて手が出なかったので、
歌川広重や渓斎 英泉、歌川国貞などの作品を集めたようです。
その数、500点余り。
三代歌川豊国(歌川国貞) 東海道名所風景 日本橋 1863年 ファン・ゴッホ美術館

ゴッホは印象派の描法と、浮世絵の表現法の影響を受けながら、
それらを自らの芸術に融合させて独自の世界をつくりあげていきます。
モンマルトル:風車と菜園 1887年3-4月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

下は、同じ頃に描いた自画像です。
ゴッホは自画像を30数点描いていますが、筆やパレットを持って画家とわかる
唯一の自画像で、義妹ヨーは 自画像の中でこの作品が一番本人に似ていると言っています。
画家としての自画像 1887年12月-1888年2月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

1888年、南仏アルルに引っ越して まばゆい光と鮮やかな色彩の中に身をおいたゴッホは、
より鮮やかに、そして浮世絵の影響を受けたくっきりとした輪郭線を使って
印象的な構図の作品を描くようになります。
種まく人 1888年11月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

アルルでは春も夏も秋も、ゴッホの描きたいモチーフには事欠かなかったので
驚異的なスピードで作品を仕上げていき、
たとえば 「ひまわり」の 連作のように、のちに代表作と言われる作品を多く遺します。
アルルの「黄色い家」を芸術家仲間のアトリエにしたいというゴッホの願いは、
弟テオがゴーガンを説得して実現するものの、対照的な性格や制作スタイルの違いから
2カ月足らずで破綻、左耳を切り落とす事件が起き、これがきっかけとなって
1888年の年末から翌年春までの間に何度も精神障害の発作を起こして暴れ、
入退院を繰り返しました。
1889年4月、弟テオ (32歳) と テオの親友アンドリースの妹・ヨー (27歳) が結婚。
その翌月、ゴッホは自らの意志でアルルに近いサン=レミの療養院に入院して、
治療に専念しますが、医師の許可が出ると糸杉やオリーブをモチーフに制作を再開しました。
1890年1月、テオとヨーの息子、フィンセント・ウィレムが誕生すると
歓喜したゴッホは「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて贈ります。
本展にこの絵は出展されていませんが、幅14mを超えるイマーシブ・コーナーで
高精細画像を投影していました。

1890年5月、療養院を退院した37歳のゴッホは南仏を去り、
テオが用意したパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移ります。
「絵になる風景をもった田舎」が気に入ったゴッホは、
たった2ヶ月でスケッチや油彩画など百数十点の作品を仕上げました。
そして運命の7月27日。
下宿屋の皆が夜になっても帰らないゴッホを心配していると左脇腹を押さえたゴッホが
戻ってきて 「自分で撃った」と言い、それで「自殺」となるわけですが、
弾は左脇腹から入り右足の付け根で留まっていたらしいんです。
右利きのゴッホが撃てる角度か? とか 当時のピストルで撃つと手にススがつくはずなのに、
それがなかったとか、当時から色々不可解な点はあったようです。
ゴッホ伝記の決定版といわれる、ピューリッツァー賞受賞の「ファン・ゴッホの生涯」では、
日頃からゴッホをからかっていた近所の少年たちが、その日もゴッホをいじめていて
そうこうしているうちに銃が暴発してゴッホに命中した他殺説が書かれています。
もしそうなら「誰も責めないで下さい」と警官に言ったのも腑に落ちますよね。
真実は闇の中...7月29日、弟テオに看取られてゴッホは37年の生涯を閉じました。
麦の穂 1890年6月 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

その年の秋、テオはパリの自宅を会場にして、3日間のささやかな追悼展を開きますが
会場で意識を失います。
何年も前から慢性腎臓病や梅毒と苦闘してきたテオは、
深い絆で結ばれていた兄の死により精神的にも肉体的にも崩壊。
完全に理性を失い、男性看護師7人がかりでも暴れるテオを押さえられず、
「麻痺性痴呆または脳梅毒と診断される疾患の兆候だった可能性がある」という
医師の所見が残されています。
1891年1月25日。テオはてんかんの発作を2度起こして息を引き取りました。享年33歳。
ゴッホの死からわずか半年足らずのことでした。
19世紀末のパリでは娼館文化が一般的だったこともあって 梅毒が猛威をふるい、
マネやゴーガンなども梅毒に苦しんでいたようですが、
不幸中の幸いはヨーと息子のフィンセントに感染していなかったことでしょうか。
テオ亡きあとのヨーは、幼いフィンセントとの生活のために下宿屋を始め、
ゴッホの作品に人々の関心を引き寄せる手段としてゴッホの手紙の整理を始めます。
ゴッホは確認されているだけで800通以上の手紙を遺しており、
そのうちの600通以上が弟テオ宛てで、残りは他の家族やゴーガンなど画家仲間宛て。
ゴッホは手紙にほぼ日付を書かなかったので、いつどんな作品を描いている時の手紙か?
の決定は大変な作業だったようです。
ゴッホ没後24年の時を経て、書簡集 「フィンセント・ファン・ゴッホ: 弟への手紙」を出版、
同年、テオの墓をゴッホの隣に移し、兄弟は今も並んでオーヴェールに眠っています。
友人の画家 アントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙 1882年9月23日頃

ヨーは手紙の整理と並行して、市場に多くの作品が出回らないように注意しながら
展覧会や展示即売会を開き、作品の写真を大衆向けに販売したり、
好意的な評論を書いてもらったりします。
元々、生活費をつけていた家計簿には 「いつ、誰に、何を、いくらで売ったか」
もつけていました。
最終的に、テオが亡くなった1891年から30年余りでおよそ250点の作品を売却。
この売却のことをヨーは 「栄光のための犠牲」と言っています。
ゴッホ没後 34年の1924年、「ひまわり」をロンドン・ナショナル・ギャラリーに売却し、
高名な美術館に作品を展示させることで、ゴッホの名声を確かなものにするという
ヨーの戦略は達成されました。翌年、ヨーは62歳で死去。

その後、ヨーの息子フィンセントは作品を散逸させないために販売をやめ、
財団を設立して大部分の作品が財団に移されます。
1973年、国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館開館。
財団所有の作品および兄弟のコレクションは美術館に永久貸与となりました。

余談ですが。
伯父 (画家・ゴッホ) と 甥 (テオとヨーの息子) が「フィンセント」、
画家ゴッホと弟テオの牧師だった父親は 「テオ」、
さらに!テオとヨーの息子のフィンセントの長男も「テオ」
家系図を見ると女性含め同じ名前があちこちにあるんです。なんで?
最後に。今年の夏以降に読んで面白かったゴッホ関連の本を2冊ご紹介します。
「画家 ゴッホの夢 謎解き名画巡礼」は、
ゴッホの代表作を取り上げ、作品解説とともに何故そのモチーフだったのか?
その時、ゴッホはどんな状況だったのか? を説明している本。
図版が多く、読みやすいです。

もうひとつは ヨーの伝記です。
著者はファン・ゴッホ美術館の上席研究員。
テオと結婚する前のヨーは、英語と英文学に関する3つの教員資格を取得し、
日刊紙の翻訳や女子寄宿学校で教師をしており文学の素養はありましたが、
芸術に関してはほぼ素人。
義兄の作品を正当に評価してもらうこと、義兄を支え続けた夫テオの遺志を継ぐことに
情熱をもって取り組んだヨーの伝記は読み始めると止まりません。
600ページ超、百科事典並みに厚い本なのでベッドの中で読むには不向きでしたけど。

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」は、12月21日(日)まで。
来春 (2026年5月29日~) には上野の森美術館で 「大ゴッホ展」も開催予定で、
大好きな 「夜のカフェテラス」も来日予定です!
ミュージアムショップで衝動買いした「ウチのゴッホ」の定位置はココ

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by tanpopo-jyo
| 2025-11-02 14:11
| 上野・浅草エリア
|
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